八甲田ガイドクラブ隊長、相馬浩義インタビュー(上)
相馬浩義。ガイドを始めて27年、八甲田山を知り尽くす男。インタビューをしていたら、約2時間も話し込んでしまい、1回では長くなりそうなので、今回(上)・(下)に分けて皆さんにお届けする事にした。まずは、ガイドを初めた頃の話や、スノーボードのルートを開拓した頃の話などを聞いた。
━━━何で八甲田でガイドをやる事になったんですか?
- 東京の大学に行ってそのまま就職したけれど、何か青森が恋しくなって戻ってきた。たぶん、風景が恋しくなったと思う。それで、戻ってきたのはいいけれどなかなか仕事に就けなかった。はっきりとやりたい事があったわけでもなかったから…ちょうどその頃、知り合いから『そんなプラプラしてるならバイトしないか?』って誘われたのが、城ヶ倉温泉(現ホテル城ヶ倉)のガイドの手伝い。当時は、山が好きだって感じではなかったし、ただ『スキーしてお金もらえるの?』って感じだった。元々スキーはやっていたけどね、やっぱり生まれが青森だから。学生の時もやっていたし。ただ、ガイドって言っても、何をやるのか最初はさっぱり分からなかったけどね。その頃八甲田のガイドは、城ヶ倉温泉と酸ヶ湯だけで、酸ヶ湯は、2月下旬のポール立ての作業からガイド達が上がってきて、そのあたりからやってた。1月,2月の厳冬期は城ヶ倉のガイドしかいなかった。今じゃ考えられないかも知れないけど、3月の晴れた日でも、田茂萢岳の周辺にはノートラックがいっぱいあった。
━━━今じゃ、考えられないですね。
- ここに来る人自体が少なかった。ガイドって言っても少ない人達で、ほとんど常連客相手。山に行かない日は除雪だったよ。(笑)それで時間があれば『山、勉強してこい!』って、1人で弁当持って出掛けて、山で訳が分からなくなって帰ってくるとか、しょっちゅうだった。基本のルートを覚えることがまず第一で、ロープウェー山頂駅から城ヶ倉に下山するルートがそれだった。
城ヶ倉温泉前で。中央の髭の方が額賀さん。左が相馬さん。
━━━城ヶ倉と酸ヶ湯だけでガイドの人数が足りてたってことですね。
- 全然足りてたし、パウダーなんか有り余ってたよ。パウダーなんて言葉は無かったかな、、深雪・新雪とかあとは「ヤブ」。当時は、今の八甲田スキースクールにいる貝森さんが隊長で、俺の先輩に額賀さんがいて、額賀さんの後をついてって山を覚えていった。既存のルートはあった。でも自分達でルートを開拓出来た時代でもあったね。今ではいろんな人が行ってるルートも、開拓してた時はそれなりに苦労したのかもしれない。銅像茶屋・八甲田温泉方面は除雪されてなかったから、どうしても田茂萢岳周辺で遊ぶ事になる。バリエーションが欲しかった、ってことかな。お客さんを連れて行く事が前提だから、安全かどうか?なおかつ楽しいか?などと考えながら、滑って、歩いて、登ってた。それで、帰って来てから地図とにらめっこ。『ここの尾根はどうだろう?』『この沢はどこまで降りれるだろう?』とか、地形図と滑った景色と照らし合わせて、だんだん繋ぎ合わせていった感じだよね。毎日ノートラックで、毎日ガスって見えないけど、それは何も思わなかった。見えなくて当たり前だったし。
右から2番目が貝森さん、相馬さんは左から2番目。
━━━そこで行けなきゃガイドとして意味が無いって事ですね。
- そうそう。ガイドになりたての頃は『なんで何も見えないのに行けるの?』って、本当に不思議だった。自分もそうなりたい!心から思ったな。
━━━その頃は何月がハイシーズンだったのですか?
- お客さんが増えてくるのがハイシーズンだとすれば、2月後半から。3月になるとそれなりにお客さんが来てって感じだったな。4月から周回道路が除雪されて、山越えツアーの始まり、それは今も変わらない。1月2月はそんなにお客さんがいなかったから、その時に滑ってルート覚えてさ。お客さんがいても1~2人だから。常連のお客さんは、悪く言えば実験台になってくれてた。(笑)
━━━その時雪にハマったりしなかったんですか?
- したした!何回もした。お客さん連れながら、汗だくになって帰って来たもん。(笑) 今じゃ考えられないかもしれないけど、城ヶ倉は宿に泊まった人のサービスとしてガイドをやっていたから、お客さんからお金取ってなかったんだ。だからって訳じゃないけど、お客さんに無理言って、『あそこに行ってみたいので…』ってそんな感じ。元々山岳スキーっていうのは、滑りを重視する訳ではないんだよ。安全に下る、それが一番大事なことなんだ。
━━━そうなんですか。
- 冬の山を移動するにはスキーが便利だからスキーを使う。そして頂上に立つ。山を旅するのがツアースキーだから、登ったり歩いたり、滑りはあくまでその一部。
━━━その当時は滑りを目的に来る人が少なかったんですね。
- 冬の山を移動するにはスキーが便利だからスキーを使う。そして頂上に立つ。山を旅するのがツアースキーだから、登ったり歩いたり、滑りはあくまでその一部。どちらかと言えば、山全体を楽しみに来ていたと思う。そういう意味では、お客さんに山の楽しみ方とかを教えてもらっていた。覚える事がいっぱいで、のめり込んでいった。
━━━なんか楽しそうですね。
- ただ、職業としてはどうだろう?そんな疑問は常にあった。今だからこんな感じで話せるけど、当時は先が見えないからさ、1日1日は楽しかったけど将来の事考えると、どうなるんだろう?って、ましてや、八甲田に今みたいにお客さんが来る事なんて分からない訳だしさ。実際に去っていった人達は何人もいた。だからシーズン終わる頃は、来季はどうしよう?っていつも考えてた。普通に働こうって。
━━━何時位からこの仕事で行けそうって思ったんですか?
- 行けそうなんて未だに思ってないな。
━━━でも、実際ガイドでやっていこうって決めた時があったんですよね。
- もう他に出来る事が無いって思った時。(笑) ムリヤリそう思うようにしたんじゃないかな。自分の中で。何より山を覚えて、ガスの中でも自由に動けて、好きな所に色々行けるようになる事が目標でもあったから。八甲田山の自然の中で自由に振舞える事、なかなか届かない目標でもあったし。
後ろ右から葛西龍文、相馬浩義、額賀 修、牧野剛志、松本智徳、外崎正賛成、石館宙平と、前列・荻野夫婦。クルーのサプライズお祝い
━━━八甲田ガイドクラブは何時から始めたのですか?
- ガイドクラブは平成3~4年かな。額賀さんが立ち上げた。ガイドで生活して行く。それがまずは第一目標。ただ前例もなかったから、大変だったと思う。でも、まわりの人達がけっこう応援してくれてた。八甲田山荘が平成5年に出来ることになり、、前オーナーがガイドクラブの事務所を山荘内におかせてくれた。その後はいろいろあったけど、何とかやってる。
━━━スノーボードは何時から始めたのですか?
- スノーボードはね、田口勝朗が、雑誌か何かの取材できて、彼の滑り見て『スノーボードって、こんな大きい弧でパウダー滑って来れるんだ!』凄いなって思った。何しろスピードに驚いた。そしてあらゆる地形にたいしてストレスが無いように見えた。歩けないとか不便な部分はあるけど、それをクリアにして、更にルートを工夫してあげれば全然いけるって。そのためにまずスノーボードをやろうって、そしたら、ある人が板とバインディングを送ってくれて‥‥これはやるしかない!
━━━スノーボードを始めて、更にボード用のルートも探し始めたんですね。
- 今って何となく普通に滑っていけるでしょ。でも、その時はちょっとルートを間違えただけで大ハマり(笑)あの時はハマったら最後だから、本当に上手にルートをとっていかないと大変。でも、スキーで全然見向きもしなかった斜面が、スノーボードだと面白い斜面になる。それは自分としては新しい発見でさ。だから、あの時は俺の第2のルート開拓時代みたいな感じだった。それまでは城ヶ倉でガイドして、ある程度八甲田覚えちゃったかなって感じになってた部分があったと思うけど、スノーボードで山入ってみて『まだ、全然だな‥』って。もう1回、山を見直すきっかけになったよね、その点でもスノーボードには感謝してるね。でも面白いって感覚は、実は後から思った気がして、やっている時は『出来るかな?』って感じ。もちろん後ろに人がいなかったら、全然話しは別だけど。後ろから滑ってくるお客さんの楽しさが伝わってくる時は、『おっ!』みたいな感じになるね。そんな時は、みんな無防備?な笑顔を見せるでしょ。幸せな気分になってしまうよね。ま、どんな時も楽しいけど、こいつは止められないぞ!って思うでしょ。
相馬浩義
八甲田ガイドクラブの隊長。ガイド歴27年の大のベテラン。八甲田山のスノーボードのルートを構築するなど、八甲田山を知り尽くす男である。今作では様々なアドバイスを貰う。八甲田を語る上では外せない人物。
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